ギャングに愛されるコルテッツが辿った衝撃の歴史

2024年6月30日

コルテッツ

ナイキの人気スニーカー「コルテッツ」は、単なる靴を超えて文化的アイコンとなりました。

しかし、その歴史には意外な暗部があります。かつてギャングの象徴となり、着用に危険が伴った時期があったのです。

1960年代に誕生したこのシンプルな靴は、どのようにしてストリートの王者となり、そしてなぜ危険視されるようになったのでしょうか。

本記事では、コルテッツがどのようにしてギャングカルチャーと結びつき、そしてどのように再び市民権を得たのかを探ります。

記事のポイント

  • コルテッツはナイキ創業時の看板商品で、日本のオニツカタイガーとの関係から生まれた
  • 1980年代後半、LAのギャングカルチャーと強く結びつき、危険視された時期があった
  • 映画やセレブリティの影響で、再び一般に受け入れられるようになった
  • 現在はポップカルチャーのアイコンとして、幅広い層に愛されている

コルテッツとギャングの意外な結びつき

ギャング

  • コルテッツとは
  • ギャングの象徴となったコルテッツ
  • 危険をもたらしたスニーカー
  • ポップカルチャーでの復権
  • 現代のコルテッツ

コルテッツとは

コルテッツは、1967年に誕生したナイキの代表的なスニーカーです。

シンプルで洗練されたデザイン、軽量性、そして優れたクッション性が特徴です。

細身のシルエットと、サイドに大きく入ったスウッシュ(ナイキのロゴマーク)が印象的で、カジュアルからスポーツまで幅広い用途で愛用されています。

当初はランニングシューズとして開発されましたが、その快適さと手頃な価格帯から、日常的な使用にも人気が高まりまし

ギャングの象徴となったコルテッツ

1980年代後半、コルテッツはロサンゼルスのストリートカルチャー、特にギャングカルチャーと強く結びつくようになりました。

その理由は、コルテッツの特性にありました。安価で入手しやすく、シンプルなデザインが、LAのギャングに好まれたのです。

当時、ロサンゼルスでは様々なギャンググループが活動しており、特にヒスパニック系ギャングとコルテッツの関係が深くなりました。

ブラッズクリップス、そしてマラ・サルバトルチャ(MS-13)などのギャンググループにとって、コルテッツは一種のユニフォームとなりました。

白いTシャツやバンダナ、ディッキーズ、ベン・デイビスとともに、コルテッツはギャングスタイルの象徴的存在となり、このスタイルは西海岸ギャングスタ・ラップの台頭とともに全国に広がっていきました。

特に1987年に発表されたN.W.A.の曲「Dopeman」では、コルテッツが「Dopeman's Nikes」と呼ばれ、その存在感を示しました。

さらに、コルテッツの色選びは単なるスタイルの選択ではなく、ストリートギャングの所属を示すものとなりました。

ブラッズは赤、クリップスは青を着用するなど、色によってギャングの帰属を表現するようになりました。

このように、LAのギャングスタ・ラップの台頭により、コルテッツはストリートカルチャーに深く根付き、単なるスニーカーを超えた文化的アイコンとなっていったのです。

危険をもたらしたスニーカー

コルテッツがギャングの象徴となったことで、一般の人々がこの靴を履くことには危険が伴うようになりました。

コルテッツを履いているだけで、ギャングのメンバーと間違われる可能性があったのです。

実際に、コルテッツを巡った銃撃事件が発生したり、学校で着用が禁止されたりするケースもありました。

ある学校では、ギャングの象徴としてコルテッツの着用を禁止し、生徒の安全を確保しようとしました。

この時期、コルテッツを履くことは一種の勇気を必要とするほどでした。

ギャングとの関連性が強かったため、誤解を招く可能性があり、特に若者たちにとっては危険な選択となっていました

コルテッツは単なるスニーカーから、社会的な意味を持つ象徴へと変化していったのです。

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ポップカルチャーでの復権

しかし、1990年代に入ると、コルテッツは徐々に一般に受け入れられるようになっていきました。

1991年、ホイットニー・ヒューストンがスーパーボウルで国歌を斉唱した際にコルテッツを着用したことが、イメージ回復の転機となりました。

さらに、1994年の大ヒット映画『フォレスト・ガンプ』で主人公が愛用する靴としてコルテッツが登場したことで、ポップカルチャーのアイコンとしての地位を確立しました。

映画の中で、フォレスト・ガンプはコルテッツを履いてアメリカ中を走り回ります。

この印象的なシーンにより、コルテッツは「ギャングの靴」というネガティブなイメージから脱却し、アメリカ文化を象徴する靴としての新たなイメージを獲得しました。

その後も、様々な映画やテレビ番組でコルテッツが使用されることで、そのイメージはさらに改善されていきました。

セレブリティやアスリートが日常的に着用する姿も見られるようになり、コルテッツは再び幅広い層に受け入れられるようになったのです。

現代のコルテッツ

現在、コルテッツはナイキの看板商品として人気を保ち続けています。

その軽さ、シンプルさ、履き心地の良さは、今なお多くの人々に愛される理由となっています。

2017年には、ラッパーのケンドリック・ラマーがナイキとのパートナーシップ契約を発表し、楽曲“Control”内でコルテッツ愛を表現したことで話題になりました。

ラマーとのコラボレーションモデルも発売され、新たな世代にもコルテッツの魅力が伝わっています。

また、人気ドラマ『ストレンジャー・シングス』とのタイアップなど、ポップカルチャーとの結びつきも強化しています。

80年代を舞台とする同ドラマでコルテッツが使用されることで、レトロでクラシックな魅力が再評価されています。

コルテッツは、スポーツシューズからストリートカルチャーのシンボル、そしてポップカルチャーのアイコンへと進化し、複雑な歴史と多様な意味を持つ靴となりました。

ギャングカルチャーとの関わりという暗い過去を乗り越え、今や世界中で愛される象徴的なスニーカーとなっています。

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ギャングが愛するコルテッツの誕生:ナイキとオニツカタイガーの物語

コルテッツ誕生

  • オニツカタイガーとの関係
  • ブルーリボンスポーツ社の設立
  • コルテッツの誕生
  • ナイキの誕生とオニツカタイガーとの別れ

オニツカタイガーとの関係

コルテッツの歴史は、1960年代の日本にさかのぼります。

ナイキの創業者フィル・ナイトは、スタンフォード大学のビジネススクールで「日本の運動靴はドイツのスポーツシューズに対抗できるか」という論文を書きました。

この考えを実践するため、ナイトは1962年に来日し、オニツカタイガー(現アシックス)と出会います。

神戸の商店でオニツカタイガーのシューズを見つけたナイトは、その高品質と低価格に感銘を受けました

すぐにオニツカ社に連絡を取り、創業者の鬼塚喜八郎氏に直接面会し、アメリカ西部での販売代理店契約を取り付けました。

鬼塚氏は、24歳のナイトの熱意に感銘を受け、わずか50ドルでアメリカでの独占輸入販売権を許可したと言われています。これは、鬼塚氏がナイトに大きな期待を寄せていたことを示しています。

ブルーリボンスポーツ社の設立

ナイトは恩師のビル・バウワーマンとともに、1964年にブルーリボンスポーツ社(後のナイキ)を設立し、オニツカの靴を販売し始めます。

バウワーマンは靴の改良に熱心で、オニツカに様々な提案をしていました。

特に、バウワーマンはクッショニングの重要性を強調しました。

1965年、長距離ランナーのケニー・ムーア選手が大会後に足を痛めたことをきっかけに、バウワーマンは競技用シューズのクッショニングとアーチサポートの改善を提案しました。

コルテッツの誕生

1967年、バウワーマンの設計に基づいてオニツカが製造したシューズが、コルテッツの原型となりました。

このシューズは、多層構造のソールを採用し、クッション性を大幅に向上させました。

当初は1968年のメキシコオリンピックに向けて「アステカ」と名付けられる予定でしたが、アディダスとの商標問題により「コルテッツ」に変更されました。

「コルテッツ」とした理由には、16世紀にアステカ帝国を滅ぼしたスペイン人のフェルナンド・コルテスにちなみ、1968年に開催されたメキシコオリンピックを征服するという意味が込められているとの説もあるようです。

ナイキの誕生とオニツカタイガーとの別れ

1971年、ブルーリボンスポーツ社は独自ブランドの立ち上げを決意し、社名を「ナイキ」に変更して独自の道を歩み始めました。

これによりオニツカタイガーとの関係が悪化し、契約が破棄されました。

その後、両社は「コルテッツ」の商標権を巡って裁判となりました

コルテッツのアイデア自体はナイトとバウワーマンが考案し、オニツカタイガーの優れた製造技術によって「タイガーコルテッツ」として世に出た商品でした。

訴訟の末、両社は和解に至り、オニツカ側が譲歩する形でナイキがコルテッツの名称権を獲得しました。

ナイキは靴のデザインにスウッシュ(ナイキのロゴ)を加え、独自のコルテッツとして販売を開始しました。

一方、オニツカタイガーは元のデザインを基に「タイガー コルセア」という名称で自社の靴として販売を続けました。

似たデザインをベースにしながらも、それぞれ独自の特徴を持つ靴が両社から異なる名称で販売されるという状況が生まれたのです。

このように、コルテッツは日本とアメリカの靴づくりの知恵が結集して生まれた、まさに国際的なスニーカーだったのです。

両社の努力と情熱が、スポーツシューズの歴史に新たな1ページを刻んだと言えるでしょう。

ニケ像とナイキとの関係(参考記事:サモトラケのニケ 顔の欠如と海軍勝利の記念碑としての意味)

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「ギャングに愛されるコルテッツが辿った衝撃の歴史」についての総括

記事のポイントをまとめます。

  • コルテッツは1960年代に日本のオニツカタイガーとナイキの協力から生まれた
  • ナイキ創業者のフィル・ナイトが日本で出会ったオニツカタイガーの靴がきっかけとなった
  • コルテッツのアイデアはナイトとバウワーマンが考案し、オニツカタイガーの技術で実現
  • 1980年代後半、LAのギャングカルチャーと強く結びつき、危険視された
  • ギャングの象徴となり、着用に危険が伴う時期があった
  • 1990年代、セレブリティの着用や映画出演により、イメージが回復
  • 『フォレスト・ガンプ』での登場が、ポップカルチャーアイコンとしての地位を確立
  • コルテッツは安価で入手しやすく、シンプルなデザインが特徴
  • ナイキとオニツカタイガーの契約破棄後、裁判でナイキが名称権を獲得
  • ナイキがコルテッツの名称権を獲得し、スウッシュを加えた独自デザインで販売
  • オニツカタイガーは元のデザインを基に「コルセア」として販売
  • 現在も、ナイキの看板商品として人気を維持し、新世代にも愛される
  • アーティストとのコラボや人気ドラマとのタイアップで新世代にもアピール
  • スポーツシューズから文化的アイコンへと進化し、複雑な歴史を持つ靴となった

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