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地動説と天動説どっちが本当?科学的発見で解き明かす2000年の謎

2025年1月6日

天動説と地動説

「それでも地球は回っている」―この有名な言葉をご存知でしょうか?

地動説を主張して裁判にかけられたガリレオの言葉として知られていますが、実は後世の創作だったのです。

では、なぜこのような劇的な逸話が生まれたのでしょうか。

実は地動説と天動説の対立には、科学的な論争以上に、複雑な人間ドラマが隠されていました。

現代では当たり前のように「地球が太陽の周りを回っている」と教えられますが、16世紀までは逆に天動説の方が科学的だと考えられていたのです。

本記事では、2000年以上に及ぶ地動説と天動説の壮大な論争から、現代の科学的真実が明らかになるまでの興味深い歴史を解き明かしていきます。

記事のポイント

  • 天動説から地動説への転換点となった科学的発見について
  • 天動説では説明できなかった天体現象の詳細
  • ガリレオ裁判の真相と宗教との関係
  • 地動説が完全に証明されるまでの道のり

地動説と天動説どっちが支持されていたのか、時代とともに変わる定説

  • 古代ギリシャ時代から続く地動説の歴史
  • 天動説が長く支持された科学的根拠
  • コペルニクスによる地動説の体系化
  • ケプラーが発見した惑星の軌道の法則

古代ギリシャ時代から続く地動説の歴史

地動説の起源は紀元前3世紀にまで遡ります。

古代ギリシャの天文学者アリスタルコスが初めて地動説を提唱し、太陽を中心に据えた惑星の配置を明確に示しました。

この画期的な理論は、それまで説明できなかった惑星の逆行現象を合理的に説明できました。

逆行現象とは、地球から見たときに惑星が一時的に逆方向に動いているように見える現象のことです。

また、地球の周りの星々の位置が変化しない理由についても、恒星が非常に遠い距離にあるためと説明しています。

しかし、アリスタルコスの地動説には大きな課題がありました。

「なぜ上に投げた物体が地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのか」

という疑問に答えることができなかったのです。

また、空を飛ぶ鳥が地球の自転に取り残されない理由についても明確な説明ができませんでした。

これらの課題が地動説の普及を妨げる大きな要因となり、結果として別の説が台頭することになります。

それが、後に1500年以上も支持されることになる天動説でした。

天動説が長く支持された科学的根拠

プトレマイオスの想像画
プトレマイオスの想像画
(See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)

天動説は紀元前から16世紀まで、最も科学的な天体運行の説として支持されてきました。

特に注目すべきは、アポロニウス、ヒッパルコス、そしてプトレマイオスによる理論の体系化です。

彼らは周転円という革新的な概念を導入し、惑星の複雑な動きを説明することに成功しました。

周転円とは、惑星が大きな円(従円)の上を回りながら、同時に小さな円の上も回るという理論です。

この動きは、現代の遊園地のコーヒーカップに例えると分かりやすく、カップの取っ手を中心から見ると2種類以上の円運動が合成され、進む方向や速さが変化して見えるのと似ています。

さらに、プトレマイオスはエカントという架空の中心軸を設定することで、暦の作成にも十分な精度を実現しました。

天動説においてプトレマイオスが考案した周転円による惑星運動
天動説においてプトレマイオスが考案した周転円による惑星運動
惑星(図の橙色の点)は、小さな円である周転円(図の点線の円)上を一定の速さで回転します。この周転円自体も、より大きな円である従円の上を移動していきます。ただし、従円の中心(図のX印)は地球の中心とは少しずれており、周転円の中心の動きは、エカント点(図の黒点)から見たときに一定の角速度となるように設定されています。この複雑な運動モデルにより、当時の天文学者たちは惑星の見かけの運動を説明しようと試みました。

天動説には、地球を宇宙の中心とすると一様な円運動が実現できないというジレンマがありましたが、それでも暦を作成するには十分な精度があり、実用的な面で優れていました。

また、当時の人々の実感とも一致していたため、広く受け入れられました。

この天動説の支配は、16世紀にある革新的な天文学者が現れるまで続くことになります。

その人物こそが、地動説を科学的に体系化したコペルニクスだったのです。

コペルニクスによる地動説の体系化

ニコラウス・コペルニクス
ニコラウス・コペルニクス
(District Museum in Toruń, Public domain, via Wikimedia Commons)

16世紀、ポーランドの聖職者であり天文学者でもあったコペルニクスは、地動説を科学的に体系化した理論を発表します。

彼の理論の画期的な点は、すべての惑星の公転半径と公転周期が相互に関連していることを示したことです。

これにより、地球の公転半径を基準にして、他の惑星との距離を正確に算出することが可能になりました。

また、1年という時間の測定方法も確立し、この成果は後のグレゴリオ暦の基準として採用されています。

しかし、コペルニクスの理論にも課題がありました。惑星の軌道を単純な円としか考えていなかったため、複雑な惑星の動きを完全には説明できなかったのです。

『天体の回転について』に描かれているコペルニクスの宇宙
『天体の回転について』に描かれているコペルニクスの宇宙
(Nicolai Copernici Created in vector format by Scewing, Public domain, via Wikimedia Commons)

聖職者だったコペルニクスは、自身の理論が宗教的な論争を引き起こすことを恐れ、死の直前まで著書の発行をためらっていました。

1543年に発行された「天体の回転について」は多くの人々に読まれたものの、当時はそれほど大きな話題にはならず、地動説が天動説より優れているという決定的な証拠を提示するまでには至りませんでした。

しかし、この著書は次世代の天文学者たちに大きな影響を与えることになります。

特に、デンマークの天文学者ブラーエの観測データを受け継いだケプラーは、コペルニクスの理論を基に、画期的な発見をすることになるのです。

ケプラーが発見した惑星の軌道の法則

ヨハネス・ケプラー
ヨハネス・ケプラー

ドイツの天文学者ケプラーは、デンマークの天文学者ブラーエの16年にも及ぶ膨大な観測記録を詳細に分析し、革新的な発見をします。

それは、火星の軌道が従来考えられていた円ではなく、楕円であるということでした。当時、天文学者たちは惑星の軌道を必ず円だと考えており、この発見は天文学界に衝撃を与えました。

ケプラーはこの発見を基に惑星運動の法則を確立し、1627年に「ルドルフ星表」を作成します。この星表は、当時主流だった「プロイセン星表」の30倍もの精度を持ち、天文学者たちを驚かせました。

それまで、地動説は便利な計算方法として使われることはあっても、天動説に代わる本格的な理論とは考えられていませんでした。

しかし、ケプラーの法則により、地動説は単なる仮説から、天体の運行を正確に説明できる理論として認められるようになっていきます。

この発見は、天文学の歴史における重要な転換点となり、後のガリレオの研究やニュートンによる万有引力の法則の発見にも大きな影響を与えることになったのです。

そして、この頃からイタリアでは、ガリレオが画期的な実験と観察を始めていました。

地動説と天動説どっちが本当だったのか、科学の進歩が導いた結論

  • ガリレオの実験がもたらした新しい発見
  • 誤解されているガリレオ裁判の真相
  • ニュートンの万有引力による理論的証明
  • 地動説が完全に証明されるまでの道のり

ガリレオの実験がもたらした新しい発見

ガリレオ・ガリレイ(1636年の肖像画)
ガリレオ・ガリレイ(1636年の肖像画)
(Justus Sustermans, Public domain, via Wikimedia Commons)

ガリレオは、それまでの天文学者とは異なるアプローチで地動説の研究に取り組みました。

同じ条件で実験を繰り返し行い、誰もが同じ結果を得られる実証的な科学の手法を確立したのです。

その中で最も重要な発見が慣性の法則でした。

「物体は外部から力が加えられない限り、その状態を保ち続ける」というこの原理により、天動説派が長年主張してきた「なぜ鳥は地球の自転に取り残されないのか」という疑問に、初めて合理的な説明が可能になりました。

さらにガリレオは、自作の望遠鏡を使って革新的な観察を行います。

木星の衛星の存在を確認し、「地球が動くなら月は取り残されてしまう」という地動説への反論を覆しました。

また、金星の満ち欠けの観測により、金星と地球の距離が変化していることも証明。

太陽の黒点の観測からは太陽自身も自転していることを発見し、これらの成果は全て地動説を支持する有力な証拠となりました。

ガリレオの実験と観察に基づく科学的手法は、それまでの思弁的な天文学から、実証的な近代天文学への大きな転換点となったのです。

しかし、これらの発見は彼を教会との対立に巻き込むことになります。

その真相は、一般に語られているものとは少し異なっていたのです。

誤解されているガリレオ裁判の真相

ローマの異端審問所で異端審問を受けるガリレオ
ローマの異端審問所で異端審問を受けるガリレオ
(Joseph-Nicolas Robert-Fleury, Public domain, via Wikimedia Commons)

ガリレオ裁判は一般的に、科学と宗教の対立の象徴として語られることが多く、「それでも地球は回っている」という言葉と共に、科学の真理を宗教が弾圧した事件として紹介されています。

しかし、この有名な言葉は19世紀に創作されたドラマであり、実際の裁判はそれほど単純なものではありませんでした。

裁判の本質は地動説の是非ではなく、ガリレオと教皇庁の関係者との間の個人的な対立が大きな要因だったのです。

特に重要なのは1616年の第一回裁判の解釈を巡る対立でした。

教皇庁側は、ガリレオが「地動説を捨てる」という約束をしたと主張しましたが、ガリレオ本人はそのような約束をしていないと反論。

当時の裁判を担当したベラルミーノ枢機卿の証明書を提示しましたが、教皇庁側はガリレオの署名のない「有罪とする」という裁判記録を提出します。

すでに死去していたベラルミーノ枢機卿に確認することもできず、真相は今も謎に包まれています。

1632年に出版された「天文対話」は当初、教皇庁の許可を得ていました。

ガリレオ・ガリレイによる1632年の著書「天文対話」の口絵
ガリレオ・ガリレイによる1632年の著書「天文対話」の口絵
(Giovanni Battista Landini, Public domain, via Wikimedia Commons)

この本は一般の人々にも読みやすいイタリア語で書かれ、地動説を支持する者、天動説を支持する者、良識派市民の3人による対話形式で構成され、最終的に地動説支持者が勝利する展開でした。

しかし、この分かりやすい内容が予想以上の反響を呼び、それを危惧した教皇庁が対応に出たとされています。

結果として、ガリレオは軟禁状態に置かれましたが、弟子への教育や執筆活動は許可され、重要な著作「新科学論議」も執筆することができました。

また、教皇庁も地動説を完全に否定したわけではなく、コペルニクスの著作も数学的な仮説という但し書きがつけば閲覧が許可されており、宗教的、政治的な妥協が図られていたことが分かります。

このような曖昧な状況の中、地動説の決定的な証明には、さらなる科学的発見が必要でした。

その重要な一歩を踏み出したのが、イギリスの天文学者ニュートンだったのです。

ニュートンの万有引力による理論的証明

アイザック・ニュートン(1702年の肖像画)
アイザック・ニュートン(1702年の肖像画)
(Godfrey Kneller, Public domain, via Wikimedia Commons)

イギリスの天文学者ニュートンは、地上の物体に働く引力が、月などの天体にも同様に働いているという画期的な発見をします。

それまでの天文学では、地上の物体と天体は全く異なる法則に従うと考えられていました。

実際、ガリレオでさえ天体は完全な円運動をすると信じており、ケプラーが発見した楕円軌道の理由を説明することはできませんでした。

しかし、ニュートンは万有引力の法則を発見し、なぜ惑星が楕円軌道を描くのかを科学的に説明することに成功します。

さらに重要なのは、ニュートンが太陽の位置づけを大きく変えたことです。

それまでの地動説では太陽を宇宙の中心と考えていましたが、ニュートンは太陽も単なる巨大な質量を持つ天体の一つに過ぎず、その外側にはさらに広大な宇宙が広がっていることを明らかにしました。

この理論は、天体の運動を神の意志ではなく、単純な科学法則で説明できることを証明し、近代的な宇宙観を確立することになります。

しかし、地動説の完全な証明には、まだいくつかの課題が残されていました。

その最終的な証明には、さらに精密な観測技術の発展を待つ必要があったのです。

地動説が完全に証明されるまでの道のり

地動説の完全な証明には、18世紀から19世紀にかけての2つの重要な発見が必要でした。

1つ目はジェームズ・ブラッドリーによる光行差の発見です。

光行差とは、地球の公転により星の光がわずかにずれて見える現象で、これは地球が動いていることの直接的な証拠となりました。

2つ目は、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルによる年周視差の観測成功です。

年周視差とは、地球が公転することで近くの恒星の見かけの位置が変化する現象のことです。

この変化は極めて小さく、最も地球に近い恒星でも0.76秒という微小な角度でした。

これは271メートル先の物体を1ミリ動かしたときの角度に相当し、当時としては最高性能の望遠鏡がなければ観測できないほどの微細な変化でした。

アリスタルコスの時代から天文学者たちは、恒星が非常に遠くにあるため視差が検出できないのだと考えていましたが、それを実際に証明したのは1838年のことでした。

この発見により、宇宙が太陽系だけでなく、無数の星と惑星で構成されていることが明らかになり、地動説は完全な証明を得ることができました。

こうして2000年以上に及ぶ天動説と地動説の論争は、ついに決着を迎えたのです。

現代では当たり前のように教えられる地動説ですが、その背後には、数多くの科学者たちの飽くなき探求と、革新的な発見の積み重ねがあったことを忘れてはいけません。

「地動説と天動説どっちが本当?科学的発見で解き明かす2000年の謎」についての総括

記事のポイントをまとめます。

  • 地動説は紀元前3世紀のアリスタルコスにより提唱されるも、当時は未解決の課題が多く存在
  • 天動説は16世紀まで最も科学的な説として支持され、暦の作成にも十分な精度を実現
  • コペルニクスが地動説を科学的に体系化し、惑星の運動の相互関係を解明
  • ケプラーが惑星の軌道が楕円であることを発見し、地動説の正確性を証明
  • ガリレオの実験により、地球の自転に関する疑問が解決
  • ガリレオ裁判は科学と宗教の対立ではなく、個人的な確執が主な原因
  • ニュートンの万有引力の法則により、惑星の楕円軌道が理論的に説明可能に
  • 光行差と年周視差の発見により、地動説は完全な証明を獲得
  • 地動説の完全証明には紀元前3世紀から1838年までの約2000年を要した
  • 現代の当たり前の真実も、歴史的には長い探求の道のりがあった

本記事では、地動説と天動説の長年にわたる論争から、科学的な真実が明らかになるまでの道のりを解説しました。

一見、対立するように見える科学と宗教の関係も、実際はより複雑な人間関係や社会背景が絡み合っていたことが分かります。

現代では当たり前となっている地動説も、その証明には2000年以上の時間と、数多くの科学者たちの努力が必要だったのです。

-雑学