世界的に有名な絵画「叫び」。
日本では「ムンクの叫び」として知られていますが、海外ではゴッホの作品と勘違いされることも多い名画です。
実は、ムンクはゴッホと同時代を生きた画家で、その作品には興味深い共通点が見られます。
また「叫び」には5つのバージョンが存在し、それぞれ異なる技法で描かれているなど、知られざる事実も数多く存在します。
今回は、「叫び」にまつわる様々な誤解を解きながら、作品の真の魅力に迫っていきます。
目次
ムンクの叫びとゴッホの関係性から見る芸術の真実
- 「叫び」の作者ムンク、ゴッホとの時代的な結びつき
- ゴッホからの影響が見られるムンクの作品
「叫び」の作者ムンク、ゴッホとの時代的な結びつき
「叫び」の作者について、意外な誤解が広がっています。
海外ではゴッホの作品だと思い込んでいる人が多く、ゴッホ美術館を訪れた見学者から
「なぜここに『叫び』が展示されていないのか」
という質問があるそうです。
しかし「叫び」を描いたのは、ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクです。
日本でも「ムンクの叫び」という呼び方が定着しているため、逆に
「『ムンクの叫び』の作者は誰だっけ?」
と言ってしまうほどです。
ムンクとゴッホは同時代を生きた画家でした。
ムンクは1863年の生まれで、ゴッホより10歳年下でした。
同時代を生きた2人の画家でしたが、実際に出会ったという記録はどこにも残されていません。
1889年にパリで開催された展覧会には両者が訪れていたものの、出会いを裏付ける証拠は見つかっていません。
ただし、ムンクは同時代の画家たちから多くを学び、特にクロード・モネやカミーユ・ピサロといった印象派の画家たち、そしてゴッホからも影響を受けていました。
また、両者とも日本の木版画から強い影響を受けているという共通点も持っています。
実際、ムンクの作品には、ゴッホの影響を感じさせる特徴が随所に見られるのです。
ゴッホからの影響が見られるムンクの作品
ムンクの作品には、ゴッホの影響を感じさせる特徴が見られます。
例えば、ゴッホが1888年に描いた「トランケテイユの橋」と、5年後にムンクが描いた「叫び」を比べてみると、興味深い共通点があります。
遠近法を強調した斜めの歩道や橋が画面を横切り、手前から奥へと伸びる直線的な構図、画面左手前と後方に配置された人物など、構成の要素が非常に似ています。
しかし、その表現方法は対照的です。
ゴッホは日常的な橋の風景を明るい色調で描いているのに対し、ムンクは同様の構図を用いながら、不安や恐怖といった感情を、うねるような線と鮮やかな色彩で表現しています。
この影響関係は「星月夜」という作品を見比べるとさらに明確になります。
ゴッホの「ローヌ川の星月夜」(1888年)から30年以上後、ムンクは自身の「星月夜」(1922-24年頃)を描きました。
(Vincent van Gogh, Public domain, via Wikimedia Commons)
(Edvard Munch, Public domain, via Wikimedia Commons)
夜空に輝く星々、遠くに見える街の明かり、そして画面手前にたたずむ人物という構図は、ムンクがゴッホの作品から着想を得ていた可能性を感じさせます。
しかし、ここでも両者の表現は対照的です。
ゴッホは短い力強い筆遣いで星明かりとその水面への反射を丁寧に描き出し、夜景に躍動感を与えています。
これに対してムンクは、より自由な筆致で動きのある夜空を描き、どこか夢見るような雰囲気を生み出しています。
このように、ムンクはゴッホの影響を受けながらも、独自の表現を追求しました。
そのため、同じような構図や題材を扱いながら、全く異なる印象の作品が生まれたのです。
このような芸術的な繋がりが、時として作品名や作者の混同を生む要因となっているのかもしれません。
ゴッホ作品と間違われるムンクの叫びの真実
- 正式名称は「ムンクの叫び」ではない
- 存在する5つの「叫び」
- 実は叫んでいない中央の人物
- ペルーのミイラがモデルの衝撃的事実
- オスロに実在する背景の風景
- 「叫び」と同じ構図に隠されたムンクの真意
正式名称は「ムンクの叫び」ではない
日本では「ムンクの叫び」として広く知られているこの作品ですが、正式なタイトルは「叫び」です。
ムンク本人がドイツ語で付けた原題は「Der Schrei der Natur(自然の叫び)」。
この作品はあまりにも有名になったため、「ムンクの叫び」で一つの言葉として定着してしまいました。
しかし、これは作者名と作品名を組み合わせた通称に過ぎません。
ムンクの母国語であるノルウェー語では「Skrik(叫び)」、英語では「The Scream」と呼ばれており、世界的にはシンプルに「叫び」という名称で親しまれています。
この名称には重要な意味が込められています。
なぜなら、この作品で表現されているのは画家自身の叫びではなく、自然から聞こえてくる叫び声だったからです。
そして、この作品へのこだわりは、ムンクが5つものバージョンを制作したことからも見て取れます。
存在する5つの「叫び」
「叫び」には複数のバージョンが存在し、それぞれが異なる画材と歴史を持っています。
作品が制作された順に見ていきましょう。
第1作目(1893年、クレヨン画、ムンク美術館所蔵)
最初の作品はクレヨンで描かれ、これが後の「叫び」シリーズの原点となりました。
最も初期の作品
(Edvard Munch, Public domain, via Wikimedia Commons)
第2作目(1893年、テンペラ・クレヨン、オスロ国立美術館所蔵)
第1作を元に、テンペラとクレヨンを組み合わせて制作された作品です。
(※テンペラ:乳化作用を持つ物質を絵具として利用する絵画技法)
1893年制作 - オスロ国立美術館
公開された最初のバージョンであり、おそらく最もよく知られている作品
(Edvard Munch, Public domain, via Wikimedia Commons)
ムンクはこれを完成形とみなし、1902年には「愛」「死」「不安」を主題とした作品群「生命のフリーズ」の一部として発表しています。
後に、友人で美術史家のイェンス・ティースがオスロ国立美術館の館長に就任した際、同館に寄贈されました。
この作品は1994年2月、リレハンメルオリンピック開催時期に盗難被害に遭いましたが、3ヶ月後に無事回収されています。
第3作目(1895年、リトグラフ、ムンク美術館所蔵)
石版画の技法であるリトグラフで制作された版画作品です。45枚の限定版として作られました。
1895年制作 - ムンク美術館蔵
印刷業者がリトグラフの石を再利用する前に、約 45 枚の印刷物が作られた。数枚はムンクによって手彩色された。
第4作目(1895年、パステル画、個人蔵)
パステルで描かれたこのバージョンは、2012年5月にニューヨークのサザビーズのオークションに出品され、わずか12分の競りで約96億円という当時の美術品史上最高額で落札されました。
(※パステル:乾燥した顔料を粉末状にして固めた画材)
2012年にサザビーズで約1億2000万ドルで落札され、レオン・ブラックの個人コレクションに収められている
(Edvard Munch, Public domain, via Wikimedia Commons)
第5作目(1903年、テンペラ・油彩、ムンク美術館所蔵)
第2作を寄贈した後、ムンクは手元に置く作品として新たなバージョンをテンペラと油彩で制作しました。
2004年にムンク美術館から盗まれたが、2006年に回収された
(Edvard Munch, Public domain, via Wikimedia Commons)
この作品は、ムンクが80歳で亡くなるまで大切に保管していました。
2004年8月、銃を持った強盗団によって「マドンナ」とともに強奪されるという事件に遭い、2年後の2006年8月、オスロ市内で2点とも発見されました。
「マドンナ」は修復に成功したものの、「叫び」は液体による損傷が激しく、完全な修復は不可能だったとされています。
(Edvard Munch, Public domain, via Wikimedia Commons)
リトグラフを除くこれらの作品はすべて通常の麻布のキャンバスではなく、厚紙に描かれています。
この時期のムンクの作品で厚紙を使用したものは他にほとんどなく、画材の選択にも彼の試行錯誤が表れています。
このように、ムンクは画材や技法を変えながら「叫び」を描き続けましたが、これらの作品に共通する最も特徴的な要素は、画面中央に描かれた人物の存在です。
この人物は一体何を表現しているのでしょうか。
実は叫んでいない中央の人物
多くの人が「叫び声をあげている人物」として認識しているこの作品の主人公は、作者のムンク本人です。
「叫び」が生まれた瞬間について、ムンク自身が2つの記録を残しています。
1892年1月22日、ムンクは「ニースでの日記」の中で『叫び』の着想を以下のように記しました。
ある夕方、小道を歩いていた。
片側には街が広がり、もう一方にはフィヨルドが見えていた。
私は疲れを感じ、体調も悪かった。足を止め、フィヨルドを見渡した。
太陽は沈みかけ、雲は血のように赤く染まっていた。
その時、自然全体を貫く叫びを感じた。それは、まるでその叫びが聞こえたようだった。
この絵を描く際、私は雲を本物の血のように表現した。
色が叫び声を上げているようだった。こうして、この『叫び』が生まれたのだ。
その後、この体験はさらに詩としても表現され、1895年のパステル版の額縁に自ら手書きで記されました。
友人二人と道を歩いていた - 太陽が沈んでいく - 突然、空が血のように赤く染まった - 私は立ち止まり、疲労を感じ、柵に寄りかかった - 青黒いフィヨルドと街の上には、血と炎の舌が広がっていた - 友人たちは先に進み、私はそこに立ち尽くし、不安に震えていた - その時、自然全体を貫く無限の叫びを感じたのだ。
この2つの記録から分かるように、絵の中心にいるムンクは叫んでいるのではありません。
彼は自然から聞こえてくる叫びに反応し、その声から身を守るように両手で耳を塞いでいるのです。
この不思議な体験はムンクの心の中で起きた出来事であり、だからこそ作品の中の友人たちはそのまま歩き続けています。
そして、この特徴的な人物の姿には、さらに意外な出典があったのです。
ペルーのミイラがモデルの衝撃的事実
画面中央に描かれた特徴的な人物の姿には、意外な出典があります。
1978年、美術史家のロバート・ローゼンブラムは、この人物の造形が1889年のパリ万博で展示されていたペルーのミイラからインスピレーションを得ている可能性が極めて高いと指摘しました。
(Francesco Bini, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
両手を頬に当てた奇妙な姿勢や、性別を特定しづらい特徴的な容姿は、このミイラの影響を強く受けているとされています。
興味深いことに、このミイラはムンクの友人であった画家のポール・ゴーギャンにも影響を与えました。
ゴーギャンは1888年にアルル滞在時に描いた作品「ぶどうの収穫、人間の悲劇」の中で、少女の表情とポーズにこのミイラの特徴を取り入れています。
(Paul Gauguin, Public domain, via Wikimedia Commons)
ムンクが描いた中心人物は、彼自身の体験と芸術的想像力に加え、このペルーのミイラという実在の遺物からも影響を受けて生み出された可能性があります。
そして、この作品の背景もまた、実在の場所がモデルとなっているのです。
オスロに実在する背景の風景
「叫び」に描かれた風景は、ムンクの想像ではなく、実在する場所がモデルとなっています。
その場所は、オスロのエーケベルグの丘から見える景色です。
この丘の上からは、オスロの街並み、オスロ・フィヨルド、そしてカヴォヤの全景を一望することができます。
燃えるような朱色の空や群青色のフィヨルドなど、作品に描かれた風景は、ムンクが何度もスケッチと習作を重ねて描き出したものです。
当時、この丘に続く曲がりくねった道は、オスロ市民の人気の観光スポットでした。
多くの人々が街を見下ろすために訪れ、特に芸術家たちにとっては絵を描くお気に入りの場所だったと言われています。
しかし、この場所をムンクが選んだことには、もう一つ個人的な意味がありました。
エーケベルグの丘のふもとには当時、精神病院があり、そこにはムンクの妹のローラ・キャサリンが躁鬱病の患者として入院していたのです。
「叫び」の背景には、このようにムンクの個人的な体験や感情が深く結びついていました。
そして、この同じ風景は、「叫び」を含む3つの作品の舞台としても重要な役割を果たすことになるのです。
「叫び」と同じ構図に隠されたムンクの真意
ムンクは、オスロのフィヨルドを見下ろす風景を舞台に、複数の関連作品を描きました。
「叫び」に続いて1894年に制作された「不安」では、喪服のような黒い服に身を包んだ集団が、青ざめた顔でこちらに向かって歩いてくる姿が描かれています。
(Edvard Munch, Public domain, via Wikimedia Commons)
「叫び」が個人の不安な感情を表現したのに対し、「不安」では群衆の中に存在する恐怖や不安がテーマとなっています。
この「不安」は、ムンクの連作「生命のフリーズ」の一部として位置づけられています。
一方、「叫び」の原型となったのが、1892年に制作された「絶望」です。
この作品では、帽子をかぶった男性が柵に寄りかかり、オスロのフィヨルドを背景に物思いにふける姿が写実的に描かれています。
(Edvard Munch, Public domain, via Wikimedia Commons)
この「絶望」は、ムンク自身が抱えた深い孤独感や不安を反映したものであり、後に制作される「叫び」の感情的な基盤を築きました。
さらに、1894年には「絶望」の象徴性を強調した新たなバージョンが制作されました。
この1894年版の「絶望」では、黒い服を着た人物が深く頭を垂れ、背景の空は渦巻くような赤と黄色で彩られています。
(Edvard Munch, Public domain, via Wikimedia Commons)
感情表現がより劇的になり、「叫び」との親和性が一層強調されています。
この作品もまた、「生命のフリーズ」と呼ばれる連作の一部として、人間の内面を探求する重要な位置づけを持っています。
ムンクは、「この作品を通して人生の意味を理解してほしい」と語っており、同じ場所や構図を用いながらも異なる感情を描き分けることで、観る者に深い洞察を与えようとしました。
「叫び」「不安」「絶望」は、それぞれが人間の内面に潜む異なる感情の側面を象徴しており、ムンクの哲学と芸術の核心をなす作品群なのです。
「ムンクの叫びはゴッホ作?世界的名画にまつわる誤解と真実」についての総括
記事のポイントをまとめます。
- 「叫び」はムンクの作品だが、海外ではゴッホの作品と混同されることがある
- ムンクは1863年の生まれで、ゴッホより10歳年下でした。同時代を生きた2人の画家だが、実際に出会ったという記録は残っていない
- 両者の作品には共通点があり、ムンクはゴッホから影響を受けている
- 「トランケテイユの橋」と「叫び」、「ローヌ川の星月夜」と「星月夜」など、構図に類似点が見られる作品がある
- 「叫び」には5つのバージョンが存在し、テンペラ、パステル、リトグラフなど様々な技法で制作されている
- テンペラ画やパステル画では、通常のキャンバスではなく厚紙を支持体として選んでいる
- 最も有名な1893年の第1作は、テンペラとクレヨンを組み合わせて制作されている
- 作品の中央に描かれた人物は叫んでいるのではなく、自然の叫びから耳を塞いでいる
- この特徴的な人物の姿には、パリ万博で展示されたペルーのミイラの影響がある可能性がある
- 背景はオスロのエーケベルグの丘からの実在の風景で、「叫び」を含む連作の舞台にもなっている
本記事では、「叫び」の作者をめぐる誤解から、ムンクとゴッホという2人の画家の関係性、そして「叫び」という作品の独自性まで探ってきました。
ムンクはゴッホから影響を受けながらも、独自の表現技法を追求し、感動的な作品を残しました。
5つのバージョンの制作、実在の風景をモデルにした背景、そしてペルーのミイラから着想を得た可能性のある中心人物など、「叫び」には多くの興味深い物語が隠されています。
さらに、同じ構図を用いた連作を通して、ムンクは人間の内面に潜む様々な感情を丁寧に描き出しています。
両者の芸術的なつながりを知り、作品に秘められた数々の事実を理解することで、「叫び」の新たな魅力が見えてきたのではないでしょうか。